私にとっての家族とは実家で共に暮らした七人のことであった。六年ほどの間に、七人いた家族のうち四人を亡くした。最初に母が、その後、祖母、祖父、そして、弟が続いた。私、妹、父の三人が残された。父はひとり実家で暮らしていたが、病に倒れ、今は施設にいる。誰もいなくなった実家に私は戻ることになった。ふとしたとき家族について考える。自分が写真を志していながらも、家族七人で写った写真はたった二枚しかなかった。今更ながら、もっと家族揃って写真を撮っておけばよかったと思う。自分の家族七人が揃うことは、もうないけれど、代わりに別の家族を撮れないだろうか。

 あるとき、亡くなった弟の乗っていたクルマを処分することになり記録としてその写真を撮った。ただの物体を撮ったはずなのに何だか持ち主そのものを撮っているような気がした。そのうち、「家族」と「クルマ」という二つの考えが結びついた。家族とそれを象徴するものとしてのクルマ。家族がずっと同じではないように様々な理由でクルマも変わっていく。誤解を恐れずに言えば両方とも「なくなっていくもの」である。なくなっていくものの写真は美しいと思う。その瞬間は二度と訪れないのだから。

 弟の三回忌が終わった夏、実家の車庫でホコリを被っていた一台の原付バイクを引っ張り出した。亡くなった弟が高校時代に通学で使っていたものだ。お盆の真っ只中、エンジンのかからないバイクを河川敷まで運んだ。弟の友人たちとそのバイクを一緒に撮影する為だった。うだるような暑さだった。遠方から集まった彼らは、汗を滲ませながら楽しそうに弟の思い出を語っていた。貼られたステッカーや壊れた部分はそのまま残した。私にはバイクを整備できる知識がなかったが、せめて綺麗に撮ってやりたかったので、掃除だけは念入りに行った。弟のことを思い出しても、もう辛くないといえば嘘になるが、少しずつ悲しみは薄れてきた気がする。決して忘れているわけではない。むしろ昨日のことのように思い出すことすらある。感情の波は徐々に穏やかになっていくのだろうか。撮影を終えると、弟のバイクは知人に引き取られ、修理された。もう弟が乗ることはない。それでも、それは今も走っている。​​​​​​​
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