PHOTOGRAPH

これは現実のデフォルメであって、 現実の「記録」であると同時に、人々の「記憶」に強く残る方法としてこのような手段をとっている。英語でいう ”PHOTOGRAPH” に対応する日本語の「写真」という言葉は厄介である。本質的にはただの光学的化学的な像である ”PHOTOGRAPH” に「事実」であるとか「真実」であるなどというニュアンスを含ませたものが「写真」であると 私は考えている。特に日本では「写真」はストレートで事実に基づいていることが好まれ、加工や合成処理を施したものは「写真」としては邪道に扱われているように思う。この作品は ”PHOTOGRAPH” ではあってもおそらく「写真」ではない。作品 に写る通りの光景は現実には存在しない。その場所にこれらの人々やクルマが、ある一定の幅のある時刻帯に存在したことは事実だが、私はそれらに別々に照明を当て別々のタイミングで撮りそして合成している。


六年ほどの間に、七人いた家族のうち四人を亡くした。最初に母が、その後、祖母、祖父、弟が続いた。一人実家に残っていた父も病に倒れ今は施設に暮らす。誰もいなくなった実家に、私はひとり転がり込んだ。ふとした時に家族について考える。自分が写真を志しておきながらも七人で写った写真は驚くほど少なかった。今更だがもっと家族の写真を撮っておけばよかったと思う。自分の家族七人が揃うことはもうないけれど、だったら代わりに別の家族を撮れないだろうか。撮るなら記憶に残る写真にしたい。あるとき、亡くなった弟の乗っていたクルマを処分することになり、記録としてクルマの写真を撮った。 その時、ただの物体を撮ったはずなのに、何だか持ち主そのものを撮っているような気がした。 クルマには「顔」がある。そうデザインされている。クルマに人間の面影を感じるのは必然なのかもしれない。家族とそれを象徴するものとしてのクルマ。家族が一時として同じではないように様々な理由でクルマも変わっていく。だがそれも後付けの言い訳であって単に自分が興味のある被写体を選んだに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。ただの家族写真になるのか。ただのクルマの写真になるのか。違う意味を持つのか。今は気にせずに撮ることにする。

2021.7
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